2012年4月2日月曜日

Opera News 記事


 

 

Opera News 記事

 

Originally published in Opera News, reproduced with permission by Jonathan Tolins and Opera News.

 

©Jonathan Tolins   ©Opera News

 

(本記事は、米国メトロポリタン・オペラの機関誌であるOpera News誌と、著者ジョナサン・トーリンス氏の許諾を得て、saffiが日本語に翻訳しOpera News誌2004年1月号より文章部分のみを転載するものです。本ホームページよりの転載を禁じます。)

 

 

 

 

 

人は何に笑うのか?−オペラにおけるコメディに関する考察

 

ジョナサン・トーリンス

 

 

 

 

 

優れた俳優であったエドマンド・キーン[訳注:英俳優17871833、サルトルの戯曲『キーン 或いは 天才と狂気』で扱われた]は、死の床でこう言ったと伝えられる。「コメディを演じるのに比べたら、死ぬのは簡単だ。」と。これはよく引用される言葉だが、別にキーンがオペラハウスによく行っていたというわけではない。しかし、そうだとしても別段不思議ではない。通常、オペラのレパートリーでは、かなりの割合で主人公が美しく死ぬ。「トロヴァトーレ」と「トスカ」で死ぬ人の数は、タランティーノ監督の最新映画にも匹敵する。「トラヴィアータ」と「ラ・ボエーム」で人々は、ヒロインが死ぬのを苦痛をもって見届ける。毎回、オペラのシーズンには、たくさんの人々がハンカチを涙でぬらす音がする。しかし「リゴレット」でもわかるように、オペラハウスで笑うのは難しい。

 

なぜだろうか。オペラでコメディがあまりおかしくないのはなぜだろう。

 

読者の何人かは、早くも抗議のために手を振っておられるのではないだろうか。私にはその姿が見えるようだ。「こいつは何を言ってるんだ。『セビリアの理髪師』は、楽しいではないか。『コシ・ファン・トゥッテ』はお腹がよじれそうだし、『ジャンニ・スキッキ』では、笑いすぎてもらしてしまいそうになる。」たしかにそうかもしれない。しかし、オペラによく行く方ならば、おあいそ程度の、場合によっては照れ笑いしかできないような場面に耐えていなければならないことがある、ということに賛成していただけることだろう。

 

私の考えは、約30年前にコメディ「愛の妙薬」(それは十分な経験であったが)に端を発した私のオペラ通いの経験に基づいている。私は脚本家として、上演中の劇場に座って客の反応を心配しながら、客は何に笑うのか、なぜ笑うのかと常に考えてきた。確かな理論はない。人それぞれ、意見があるだろう。

 


痛みドミナ

ブロードウェイの台本作家、ピーター・ストーン[訳注:米劇作家19302003、『シャレード』など]は、あるインタビューで、「一人一人の客は常に間違っているが、客は全体としてみれば常に正しい。」と言っている。つまり、公演の後の一人の意見は意味がないが、客が笑い、息をのみ、夢中になってしーんとしていることは、その時その時、その部分がうまくいっているという何よりの証拠であるというわけである。

 

この基準からゆくと、ニュー・ヘイブンでは、オペラのコメディのほとんどが打ち切りにならなければならない。ならば、なぜオペラは、傑作コメディと言われているものでさえ笑いを取らないのに、おもしろいと言われるのか。以下は、「こうもり」を見ていて思いついた私の理論である。

 

 

 

 

すばらしいコメディは真実に基づく。状況の真実、行動の真実、動機の真実と、キャラクターの真実だ。非常に簡単に言えば、おかしみは、リアルなフレームの中で、驚きと不調和が起きた時に発生するのだ。劇場でのコメディの練習中、優秀な俳優は、素材に対して、組織的で正直なアプローチをしようとして格闘する。俳優が「笑いを取ろうとする」時、それはもうおかしくもなんともない。(演劇人の間には有名な話がある。アルフレッド・ラント[訳注:米俳優18921977]がリン・フォンテン[訳注:米女優18871983、ラントの妻]に「リン、私はいままでずっとこのセリフで笑いを取ってきたんだ。『お茶を一杯ください』って言うところでさ。でも今は笑いが取れない。なぜなんだ。」と言ったという。リンの答えはこうだった「それはいままであなたが『お茶をください』って言ってきたからよ。『笑ってください』って言ったからじゃないからじゃないの。」)キーンがコメディは難しいと言ったのは、まさにこういうことだ。

 

しかし、リアリズムの問題だけではない。優れたコメディ女優ビー・アーサー[訳注:米女優1923]が、こう説明するのを私は聞いたことがある。最初彼女がキャバレーのシリアス歌手だったころ、なぜか客は笑った。ひどく笑った。コメディは、ただリアルであることだと、つまりまじめであることだと、彼女は悟ったのだ。

 

オペラは、とてもまじめだ。だからフローレンス・フォスター・ジェンキンス[訳注:1944年カーネギーホールでリサイタルを開いた石油会社の社長夫人、その時の録音が『人間の声の栄光????』というCDになっている]にわれわれは歓声を上げるのだ。それは彼女の歌がひどいからではなく、彼女が一生懸命だからだ。客は、ジークフリートが、ブリュンヒルデを見つけて「男ではない」と叫ぶところで笑う。それは、これがジョークとして言われたからではないからだ。なのにオペラはシリアスではなくなると、とたんにおかしくなくなるのだ。

 


デビッドハッセルホフは何歳ですか

オペラは、普通のコメディのルールに則って演じることはできない。細かい動きは、ほらあなのような今日のオペラハウスでは、どこかに失われてしまう。演者が眉を上げても、ファミリー・サークル[訳注:メトロポリタン・オペラの最上階奥の席]からでは、よく見えない。演者が、後ろの列に向かって、お得意の芸を披露しても、たぶん前列のパトロンがくやしがるだけだ。オペラは、非常に芸術的な比喩、すなわちキャラクターがセリフをしゃべるのではなく歌うという比喩を、基本的な媒体としている。これは根本的にリアリティを欠き、コメディの可能性に大きく影響する。オペラは、愛、あこがれ、憎しみ、復讐という壮大な真実を表現するためにあるので、コメディの独壇場であるようなささいな真実の表現のためではない。

 

コメディの構築というものは非常に精密な作業で、すぐに軌道をはずれてしまう。演劇人は皆、ちょっとしたタイミングの悪いせきや、キャンディのつつみがカサカサ音を立てるなどのことで、笑うべきところで笑ってもらえないということを経験している。オペラの場合はさらに、オーケストラやレパートリー・システム、声楽的要求度などによって問題が増幅される。またオペラ歌手がコメディのタイミングが良いからと言って選ばれることはない。オペラでは一に声であり、二も三も声であり、またそうでなければならない。歌のよさとコメディのうまさが両立することはまれである。オペラでコメディ部分を脇役に頼るということがよくあるのは、そういうわけだ。すばらしい声の持ち主というわけではない役者� ��方が、コメディを演じる技術を持っていることが少なくないからというだけでなく、こういう人たちの方が、ハイCを出さなければならないというプレッシャーなしに、コメディを演じることに集中できるからでもある。音程を合わせ、指揮者を見ながら、おかしな人物を演じてみたまえ。

 

もちろん言語も大事だ。オペラにおいて台本は、スコアに比べれば役割が小さい(運命の力などを見るが良い)。普通のコメディはセリフの速度に依存するが、歌の歌詞はしゃべるよりも遅い。だからおかしみを出すには早口の歌は必須であり、例えば「セビリアの理髪師」のバルトロのアリアや、ドン・パスクワーレとマラテスタの二重唱、「ペンザンスの海賊」の「近代的な少将」の歌などだ。オペラでは、歌主体の演目では、言葉がはっきりわかるほど聞き取れない。自分のお気に入りのジョークをちょっと考えてみてほしい。そのジョークの落ちにはたぶん子音がついているだろう。ところがオペラ歌手は子音が嫌いだ。できるならば、子音を母音に変えようとするだろう。実際そうして歌われている。

 

オペラでは音楽の形式はまた、何より優先する。「フィガロの結婚」は傑作であり、笑いが取れることうけあいの演目だが、第一幕に、笑うに笑えない妙なところがある。二重唱「奥様どうぞお先へ」だ。この歌で、スザンナはマルチェリーナに行儀よく「お先にどうぞ」といって「お年もね」と満足そうに付け加える。これはおかしいセリフで、マルチェリーナは怒る。しかし、二重唱は繰り返すので、二人は結局同じ歌詞を同じメロディーで繰り返すことになり、理屈が合わない。モーツアルトは完璧なまでに音楽的に良いバランスで作っているのに、コメディとしてはしぼんでしまう。

 

しかし音楽が主であることが、すべての原因なのだろうか。ジングシュピールとオペレッタにはセリフがあるが、だからと言って必ず大笑いできるというわけでもない。かわいそうな歌手は、セリフを巨大な劇場にひびかせなければならない。もし、役者がオペラ歌手のように歌うなら、役者はおそらくオペラ歌手のようにしゃべらなければ勝ち目はない。さらに悪いことには、歌ってしゃべり、しゃべって歌うということを一晩に何度も繰り返すと、のどを痛める可能性がある。

 


映画館、レッドウッドフォールズ、ミネソタ州

しかし、セリフの会話はトーンを軽くする。「レ・ミゼラブル」や、「エビータ」のような、歌いづめの英国スタイルのミュージカルが主流となってからは、アメリカのミュージカルはそのウィットの多くを失った。しかし最近、「ザ・プロデューサーズ」や、「ヘアスプレー」などの旧式な台本主体のミュージカルの成功により、ミュージカルに笑いが復活している。

 

言語は重要でわかりやすいもう一つの要素である。オペラは、客の使っている言語とは違う言語で上演されることがよくある(そして、わかりやすい翻訳が困難だということはよく言われている)。これでは、マルセル・マルソー[訳注:仏パントマイマー1923]でもない限り、おかしみを感じさせるなどということはとうてい無理だ。メトロポリタン・オペラに字幕が導入される前、私はフィガロとパパゲーノが、まるで書き割りのように動かない客を前に、外国語のセリフを強調しようと虚しく手を振るの何度も見たことがある。この時、笑うのは家で台本を読んで予習してきたことをまわりの人に知らせたい一部の客だけだった(私もときどきこの仲間だったが)

 

字幕の導入は、たしかにこの状況を打開した。客は「アルジェのイタリア女」の途中で筋がわからなくなることはなくなったし、前衛的なレパートリーも前よりは歓迎されるようになった。しかし字幕を読んでの笑いは、世界共通とは言いがたい。「トリスタン」二幕のショーペンハウエル的な昼対夜の詩は、電光字幕で読むとくだらない(各所のオペラハウスは、失笑を避けるために、最低限の字幕をつける方がよいと、最近やっと学んだようだが)。また、字幕に反応した笑いと、ステージの演技に対する反応の間には、ずれがある。今、メトロポリタン・オペラの客は、「マイスタージンガー」の第三幕でくすくす笑い続ける(残酷なシーンであるのに)が、昨夏私がミュンヘンで見た時は、ドイツ語を話す客は、ひとつも笑わなかった(もちろん字幕なし)。字幕は言語の壁を超えさせるのか。それとも笑いにコメントをつけるものなのか。字幕はすばらしい、しかも人気のあるツールであるが、私の経験では、良い公演のときは字幕があることも忘れている。

 


さて、言語だけが障壁ではない。オペラのレパートリーのほとんどは100年から200年も前のもので、われわれの文化とは異なる文化の産物である。これは特にコメディにはつらく、だいたいはうまくゆかない。NBCのシチュエーション・コメディ「カップリング」は英国でヒットした同じタイトルのショーを元にしているが、これが打ち切りになってしまったのが良い例である。言葉は同じなのに、1世紀も2世紀も違うというわけでもないのに、ジョークが海を渡っただけでこうなのである。「魔笛」の中で、いいのがれや、フリーマントルの内輪受けジョークは、シカネーダー[訳注:オーストリア興行師17511812]の劇場で受けたようには今は受けないとしても、何の不思議もない。(ピーター・セラーズ[訳注:英俳優19251980、『ピンク・パンサー』など]は、ロビン・ウィリアムズ[訳注:米俳優1952〜、『パッチ・アダムス』など]をパパゲーノにして、「魔笛」を現代版のユーモアに書き換えようと考えていた。しかし、これは夢に終わった。) ハンス・ザックスが、ダヴィッドの耳を面白半分に殴るのを見て、われわれがびくっとしても不思議はない。われわれの感覚は違ってきているのだ。音楽評論家のカール・ダールハウス[訳注:独音楽学者1928]は、「マイスタージンガー」のことを「あまりほめられたものではないユーモア感覚の所産」と言った。それだからだろうか? われわれが現代的な感覚で、この作品を見ているからではないのか。

 

 

 

 

さあ、では本当に欠けているものは何か、という問題に答えをだそう。オペラの中でも時代を生き抜いてきた作品は、笑えるという以上の作用をもたらす。「マイスタージンガー」は「長くてほとんど笑えないドイツ語の作品」だと思われてきたが、これが長く上演されてきたこと自体が、この作品が傑作であることを示していると私は考える。笑いは、特別の時間と場所に付着するものであるが、すばらしいコメディは、時間を超えた真実に肉薄するものなのだ。「コメディと笑い(Comedy and Laughter)」というエッセイで、ベンジャミン・レーマンは、こう述べている。

 

「……われわれはコメディで、しぐさやセリフに笑うのではない。コメディ全体に笑うのである。というのもコメディ全体というのは、非常に真剣な作業であって、ものごとがどうなっているのかということに関する人間の直感と、必要で共感できるよりよいものを得たいという深いところにある人間的な欲望と、さらに深いところにあるわれわれの人間的な欲望、すなわち時間に対する恐怖と分裂に対する恐怖から完全に自由で、それ自体楽しい状況を、心の前に現出させたいという欲望を満たすことによって、人生に対する肯定を生み出すのだ。」

 

悲劇でない傑作オペラにアプローチする良い方法とは、どんなものなのか? 音楽的にも、演劇的にも、芸術としてすばらしいものにすることができるとすれば、もっと考えてみる価値があると思われる。

 


そう、アルフレッド・ラントの話のように、笑ってもらうのではなく、単に「お茶を一杯」頼んでみるようにしたらいいのではないか。演出家や歌手に「笑いを取る」ように求める必要などない。われわれはシェイクスピアの戯曲やヘンデルのオペラが、そうすることが際限のない欲求を持った人々を楽しませるために必要だと考える神経質な演出家によって、ゆがめられたプロダクションを見てきた。そうではなくて、みんなに真実を演じるようにさせるがよい。そうすれば、笑いがわく、今までの二倍も。それは人の心を揺るがすに、十分なのである。

 

 

 

 

 

ジョナサン・トーリンス氏は、最近のものではオフ・ブロードウェイの演劇「The Last Sunday in June (6月の最後の日曜日)」の脚本を、またプラシド・ドミンゴ出演ウィリアム・フリードキン監督のジャコモ・プッチーニ伝記の脚本を書いている。

 

 

転載終わり

 

 

 

 

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