ベートーベン作曲〜「エリーゼのために」〜
ベートーベン作曲「エリーゼのために」のピアノ演奏です。
↑
上記クリックで動画が流れます。
4月24日の発表会で演奏する3曲の最後の1曲です。
『エリーゼのために』は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの作曲した、よく知られたピアノ曲です。1810年作曲、イ短調、ロンド形式、WoO59の番号がつけられています。
曲のタイトルにある「エリーゼ」は、お金持ち(貴族)の娘であるところで、ベートーベンと知り合い、お互い恋に落ちました。しかし、ベートーベンは 貴族ではないため、もちろん、結婚する事、恋愛関係になる事は許されなかったのです。
「エリーゼのために」の明るく愛らしいところは共に楽しい時間を過ごしている様子、激しいところは辛さ、悲しさを表しています。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Ludwig van Beethoven
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1] 発音例、1770年12月16日ごろ[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。クラシック音楽史上極めて偉大な作曲家の一人とされる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。
生涯 [編集]
1770年12月16日、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンで父ヨハン、母マリア・マグダレーナの長男として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた祖父ルートヴィヒの支援により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手であったが無類の酒好きであったため収入は少なく、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、苛烈を極める音楽の教育を受けることとなり、1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。
1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトに弟子入� ��を申し入れ、モーツァルトにその才能を認められ弟子入りを許されたが、最愛の母マリアの病状悪化の報を受けボンに戻った。母はまもなく死亡し、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。
1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンに才能を認められ弟子入りを許可され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノの即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として名声を博した。
20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり)が徐々に悪化、26歳の頃には中途失聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシ� ��タットの遺書』を記し自殺も考えたが、強靭な精神力をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意思を得て新しい芸術の道へと進んでいくことになる。
1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。
40代に入ると、難聴が次第に悪化し、晩年の約10年はほぼ聞こえない状態にまで陥った。また神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で作られた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品 群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。
1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も発症するなど病状が急激に悪化、病床に臥す。10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変により56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が駆けつけるという異例のものとなった。
--------------------------------------------------------------------------------
ベートーヴェンの修行時代一覧 (セイヤー『ベートヴェンの生涯』より。)
(ボン時代)侯付き老オルガン奏者ヴァン・エーデン 諸記録は現存せず。シュロッサーの証言による。ベートーヴェン8歳、時にエーデン70歳。 ピアノフォルテを教授したとされる。 後任のネーフェが1781年にオルガニストとして着任、その翌年の1782年6月にエーデンは他界している。ベートーヴェンの祖父の仕事仲間であった古参のオルガニストであった。
(ボン時代)侯付きフランツ・ゲオルグ・ロヴァンテーニ 教師としては尊敬を集め、教えを請う者も少なくなかった。 ベートーヴェンはヴァイオリンとビオラを教授されたとする。 しかし、1781年9月9日に僅か24歳で死去。教授期間も不明である。 ベートーヴェンへのロヴァンテーニ教授期間も短期間であったらしい。
(ボン時代)ヴィリバルト・コッホ 修道士。オルガンの演奏技術、機械構造の専門的知識により敬意を寄せられていた。 若いベートーヴェンがコッホを訪ね求めて教えを乞うた結果、ヴィリバルト修道士が 後にベートーヴェンを助手や代理に使うほどの進歩を見せたことは、ベートーヴェンがオルガンの 演奏技術を身につけたのは、この修道士による教授の功績と考えてよい。 この頃のベートーヴェンがオルガンに興味を示したのは、仕事の範囲を増やす目的であったらしい。
(ボン時代)クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ。 ベートーヴェンの師匠としては、どの伝記作家も取り上げるネーフェ。 先に上述の候付き老オルガン奏者ヴァン・エーデンの後任として1781年に就任。 ベートーヴェンに何を教授したか、その期間も定かではないが、ネーフェ自身、一貫して系統立てて作曲の理論を学んでいたわけではないから、断片的にネーフェが知りうる程度の教授であったろうことは想像に難しくはない。
しかし、このクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェは、最初にベートーヴェンの才能を認めたヴァルトシュタイン伯爵とともに、ベートーヴェンの音楽的才能を最初に評価した人である光栄に浴する権利は十分にある。ベートーヴェンの「ウィーン行き」(ハイドンの元へベートーヴェンを弟子入りさせる計画)は、ネーフェとヴァルトシュタイン伯爵が実現させた立役者である。